?布団の中で考えた。

わたしが、「窓口がわからない」のは、「知ろうとしていない」からなのか、ということについて。
わたしが、「窓口を知ろうとしていない」のであれば。
それは、わたしが「さぼっている」「甘えている」「逃げている」ということになる。
「逃げている」それは病気ではない。
「甘えている」それは病気ではない。
「さぼっている」ただの怠慢である。

それを言い出したら。
わたしの「趣味」の中に、歌があるけれど。
いろんな歌を知ろうとする努力は、確実に、周りより少ない。
家で実際に歌う練習をしない私は、確実に、周りに比べて、怠慢である。

水泳も、「趣味だ」と言っているけれど。
実際に誰かに習って、フォームを改善しているわけではない。
ただ、漫然と、水の中で体を動かしているだけである。

私は、「努力をしない人間」=「もはや『人』ではない」ということになるのか。
まあ、そうなんだろう。

?ボイトレに行く途中の電車の中で考えた。

もし、私が、ひたすらクスリを飲みながら、物理的に許されるだけ、窓口を手伝ったとして。
そのせいで、クスリも大量に飲むことになって。
それでももう耐えられなくなったとして。
どこかの駅から、もしくはどこかのビルから飛び降りたとしよう。
そうすれば、誰か一人くらいは、私をうちの会社に雇い入れたことを、後悔するだろうか。
手伝ってほしいといったことを、辞めないでほしいといったことを、後悔するだろうか。
妹たちはうちの会社を訴えるだろうか。

?ボイトレの後、三宮に向かう電車の中で考えた。

うたを捨ててまで、働く必要はあるのか。
腕を噛んでも、切り刻んでも、うたうことは出来る。
でも、吐き続けたら、うたえない。
ということは、吐きさえしなければ、うたうことはできる。
ただ、吐くことが当然であり、日常茶飯事であり、日課であると思っている状況下で、
腕を噛むことで、自分を戒め、我に返る、という状況下で、「芸術」を追求することはできるのか?

?高校の先輩と話しながら考える。

時の流れ方は、さまざまであり。
自分にとって、「もっとも居心地のよい時間、空気の流れ」というものが存在し。
その流れの速さは、きっと人によって違い。
その空気の温度も、きっと人によって違うのだ。

私が、「居づらい」と感じる環境に身をおくことで。
本当に助かる人間はいるのか。
どうして、「あなただから必要だ」と誰も言ってくれないのだろう。
どうして、「こんな奴いらない」と誰も言ってくれないのだろう。
どうして、「とにかく誰かが必要だ、お前でもいい、お前じゃ足りない、力をふりしぼれ、怠けるな!」…そんな言葉しかもらえないのだろう。
力不足。
これに尽きる、ということか。

一人になりたい。
無になりたい。
もう、何も考えたくない。

?帰りの電車の中で考える。

ボタンの掛け違え。
掛け違えたボタン達を、はずして、元あるべきところに掛けていくという作業は、それ自体はとても簡単である。
しかし、ここまでの人生、少なくとも、社会人生活の中での掛け違えは、
どれだけの時間をかければ、
どれだけの人と話せば、
元に戻るのだろうか。
いいや、戻りはしない。
なぜなら、時はもう戻らないのだから。

?PCに向かって考える。

果たして、大切にすべき、大事にすべき「自分」というものは。
いったいどこに存在するのか?
私はなにをしたくて、ここにこうして生きているのか?
誰かに必要とされたいのではないのか?
今、必要としている人間が、目の前で、あえいでいるではないか。
なぜ、救いの手が出ない。

それは、心のなかで、救いの手、言葉、まなざし、優しさを、誰よりもほしがっているのが、
自分だということを知っているからに他ならない。

今まで、大勢の、「疲れた人」「枯れた人」「病んだ人」を見てきた。
今まで私は、彼らを、励まし、ねぎらい、最後は送り出してきた。
彼らに対して、「甘えている」「逃げている」「なまけている」なんて、一度たりとも、思いはしなかった。

私は、初の、「なまけたろう」なんだろうか。

汚名を返上するためには、結局、身を粉にして、心を砕いて、何もかもを捨てて、あの場に「存在」しなければならないのか。

そもそも、なんでこんなことを言わなければならないのだろう。
なにも嫌がることなく、目の前の仕事に没頭し、新たなアイデアを浮かばせ、周りから信頼される人間しか、あの場にはいないというのに。
たとえ、辛いと思っていても、周囲には微塵も感じさせない人間ばかりだというのに。
辛い、嫌だ、と文句を言う弱いわたしとは違って。

賢くて、強くて、前向きで、信頼されているあなた達には。
馬鹿で、弱くて、後ろ向きで、信頼のおけない私の力など必要ありません。
そのことに一刻も早く気づくべきです。
社員は、キーボードが叩ければいい、話すことができればいい、というレベルでは、勤まらないでしょう?
それはあなたがたが、いつも声高に叫んでいたことでしょう?
今頃になって、なぜ翻すのですか?
「猫の手も借りたい」
わたしは猫以下ということは、もうお伝えしたはずなんですが。
書面も、お渡ししたはずなんですが。
ひょっとして、シュレッダーにかけちゃいました?
もう一度、差し上げましょうか?
                                                                                                                                                                                                     
どうして、
「本当に私は『この場にいなければならない人間』なんだ」
「本当に私は『この人たちに必要とされている人間』なんだ」
と実感できないのだろう。

昼から出勤の日に、手伝おうと思って朝からやってきたら、定時になっても私一人しかいなかったあの日のように。
「わたしがいないと、この『窓口』は回らないんです!」と言えたあの日のように。

私より、賢くて、仕事ができるみんながいるから。
だから、別に私が必死になる必要もないし。
それでも必死になって走って。
だれも、方向が違う、とか、フォームが変、とか教えてくれなくて。
私も気づかなくて。
ただ、走りづらいな、と思ってたら、案の定こけて。
「こけたね。ばかだね。早く起き上がって走れよ」
って言われて。
痛む足をひきずって走ったら、動けなくなって。
「なにやってんのよ、みんな走ってんのよ」といわれて。
手を引っ張られ、アスファルトの上を、ぼろぼろの体が引きずられていく。

早く、捨ててくれたらいいのに。
余計な望みは捨ててほしい。
そうすべきだよ。
かつて、私がしてきたようにね。

「自分しか信じない」
「わたしがすべてだ」
「あいつはもう『いない人間』だ」

もう、私達を見てはダメ。
上司も見てはダメ。
前を見て。
ただ、走れ。

隣で倒れた奴がいても。
見るな、走れ。

助けなどない。
自分しか信じるな。
日々を生き抜け。
                                                 
それが、あなたへの、メッセージ。

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